2016年12月11日日曜日

介護の本質

今日は介護の勉強を通じて、コミュニケーションの本質を学んだというお話をします。

私は今まで働いていた医療機関での仕事に加えて、今年から同じグループの有料老人ホームで施設長としての仕事も始めることとなりました。私にとって介護の現場は未知の領域であるので、とりあえずヘルパーの資格を取ろうということになりました。

皆さん、いわゆるヘルパーさんの仕事ってどんな事が頭に浮かびますか?おそらく殆どの方が、排泄・お風呂・食事、の世話をする人というイメージだと思います。実際私もそう考えてましたし、資格なんか一応形だけで、実技指導を受けれてすぐ取って、あとは実際の現場で実践あるのみと思ってました。しかし実際には、130時間(17時間として19日間)ものカリキュラムがあり、しかもその半分以上が座学で、その座学のメインがなんと、相手の事を尊重し、そしてどうやって自分が受け入れてもらえるようにするかという、介護技術というより話し方教室で教わるような事の勉強だったので、非常に驚きました。

講習のボリュームが増え、中身も実務中心から座学が増えたのには理由があります。考えてみて下さい、排泄・入浴・食事の介助と簡単にいいますが、みなさんは他人の前に裸を見られたり、良く知らない人に自分の部屋に入るなりオムツ(下着)の中を確認されたり、正面から足を開いて陰部洗浄されたとしたら、どんな感情が起こりますか?ありえないですよね。嚥下機能が低下して、食事を飲込むのに時間がかかる人がいます。下手をすれば食べ物気管に入りそうになります。皆さんがそのような状態の時、信用していない人があなたの食事介助について、意志を十分に確認することなく食事を口の中に運び入れたら、落ち着いて食事を楽しめますか?楽しめる訳がありませんね。今このブログを読んで頂いている皆さん全員がそんな介護は全て拒絶すると思います。なぜならそれらは人の尊厳を無視する介護だからです。しかし、残念ながら実際に介護を必要とする立場になれば、他人の手に身をゆだねるしかなくなります。自分の気持ちをわかってもらえない、自尊心を損なう介護です。

一方で、ケアする側も、仕事に追われ短時間に事故なく作業を終わらせることでいっぱいいっぱいで、相手の気持ちまで考える余裕はとてもありません。いそがしくてきつくて、しかも相手から感謝というエネルギーを受け取る事のない全くやりがいの生まれない介護。

自然と介護というものが、お互い心の通い合う事のない殺伐としたものとなります。それがこれまで多くの施設で行われてきた介護です。介護する側もされる側も疲れ切っています。

あと10年もすれば団塊の世代が80代に突入し、すごい勢いで高齢者が増えている日本に置いて、こんな介護の現状を変えることは待ったなしの課題であり、だからこそヘルパー講習のカリキュラムが変更となったのです。

では、いったいどのようにすれば、介護される側に自然と感謝の気持ちが生まれるような介護が出来るのでしょうか?今のヘルパー講習においては、高齢者の気持ちを理解し、本人に生きる意欲を持ってもらうようにすることが大切であると教えています。高齢者、特に介護が必要な高齢者になると、自分たちは周りに迷惑を掛ける存在で、社会から必要とされていない、そういう疎外感を持ちがちだからです。

日本に老人の介護施設や訪問介護制度ができたのはたった50年数年前のことです。それ以降様々な介護の現場で試行錯誤が行われてきましたが、一部において、老人を対象にした「無意識下の人格の否定」が起きてきました。しかし、最近になってわかってきたのは、介護を必要とする高齢者が、人としての尊厳を失えば、生きる意欲がさらに低下し、ADL(日常生活動作)も悪化する。そしてそれが、介護する側にとってさらなる負担になるという悪循環に陥ってしまうという事です。

これからの介護士は、相手の事を介護の必要なおじいちゃん、認知症のおばあちゃん、というように、病気や身体の状態だけに注目するのではなく、これまで長い人生を歩んできた、一人の人間として相手のことを尊重し、そして気持ちを理解しようとすること。そのことで介護を受ける人に、「あなたの事を大切にしています。」というメッセージが伝わります。そしてその結果、介護する側される側両者に絆が生まれると同時に、ADL(日常生活動作)の改善も期待できます。

相手を理解し、そしてお互いに理解しあう事、実はこれは人と人とのコミュニケーションの本質です。介護の世界を通じて、私はこの本質があらゆる場所そしてあらゆる相手に通用する、極めて重要な行為であることを改めて実感しました。

ここで皆さんにイギリスの高齢者施設で亡くなられたある老婦人が残した日記をご紹介したいと思います。これは亡くなられた後に手荷物の中から見つかったもので、それを見た施設長が施設スタッフ全員への貴重な教育教材として利用したものです。

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何が見えるの、看護婦さん、あなたには何が見えるの
あなたが私を見る時、こう思っているのでしょう
気むずかしいおばあさん、利口じゃないし、日常生活もおぼつかなくて
目をうつろにさまよわせて
食べ物をぼろぼろこぼし、返事もしない
あなたが大声で「お願いだからやってみて」と言っても
あなたのしていることに気づかないようで
いつもいつも靴下や靴をなくしてばかりいる
おもしろいのかおもしろくないのか
あなたの言いなりになっている
長い一日を埋めるためにお風呂を使ったり食事をしたり

これがあなたが考えていること、あなたが見ていることではありませんか
でも目を開けてごらんなさい、看護婦さん、あなたは私を見ていないのですよ
私が誰なのか教えてあげましょう、ここにじっと座っているこの私が
あなたの命ずるがままに起き上がるこの私が
あなたの意志で食べているこの私が、誰なのか

私は十歳の子供でした。父がいて、母がいて
きょうだいがいて、皆お互いに愛し合っていました
十六歳の少女は足に翼をつけて
もうすぐ恋人に会えることを夢見ていました
二十歳でもう花嫁。守ると約束した誓いを胸にきざんで
私の心は踊っていました
二十五歳で私は子供を産みました
その子たちには安全で幸福な家庭が必要でした
三十歳、子供はみるみる大きくなる
永遠に続くはずのきずなで母子は互いに結ばれて
四十歳、息子たちは成長し、行ってしまった
でも夫はそばにいて、私が悲しまないように見守ってくれました

五十歳、もう一度赤ん坊が膝の上で遊びました
愛する夫と私は再び子供に会ったのです
暗い日々が訪れました。夫が死んだのです
先のことを考え 不安で震えました
息子たちは皆自分の子供を育てている最中でしたから
それで私は、過ごしてきた年月と愛のことを考えました

いま私はおばあさんになりました。自然の女神は残酷です
老人をまるでばかのように見せるのは、自然の女神の悪い冗談
体はぼろぼろ、優美さも気力も失せ、
かつて心があったところにはいまでは石ころがあるだけ

でもこの古ぼけた肉体の残骸にはまだ少女が住んでいて
何度も何度も私の使い古しの心はふくらむ
喜びを思い出し、苦しみを思い出す
そして人生をもう一度愛して生き直す
年月はあまりに短すぎ、あまりに速く過ぎてしまったと私は思うの
そして何ものも永遠ではないという厳しい現実を受け入れるのです

だから目を開けてよ、看護婦さん 目を開けて見てください
気むずかしいおばあさんではなくて、「私」をもっとよく見て!

(パット・ムーア著『私は三年間老人だった』より)
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今あなたの目の前にいる相手をよく見ること。決して外見や印象、といった視覚情報だけでなく、その人の内側にあるものを見つける能力を持たないといけないですね。相手をよく見ることを今まで以上に大切にしながら、介護業界において経験を積んでいきたいと思います。

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